1:2023/05/23(火) 15:18:52.95ID:aJk11Fxe9 5/23(火) 15:08配信 日刊スポーツ
北野武監督(76)が22日(日本時間23日)カンヌ映画祭開催中のフランスで、日本メディア向けの取材会に出席し、6年ぶりの新作映画「首」(今秋公開)が、23日(同24日)に「カンヌ・プレミア」部門で上映されるにあたり、思いを語った。同監督は「表面上、あまり描かないことを意識して映画化した」と、主従関係のある武士同士でなされた衆道や一般社会でも慣習としてあった男色を、映画の中で描いた意味について持論を展開した。
「首」は、北野監督にとって、カンヌ映画祭ある視点部門に出品した1993年(平5)「ソナチネ」と同時期に構想し30年、温めてきた企画。「座頭市」以来20年ぶりに手がけた時代劇で、映画化に先立ち19年12月には自身初の歴史長編小説として原作を書き下ろし出版した。物語は、織田信長が跡目をエサに謀反を起こした家臣の捜索を命じたことをきっかけに明智光秀、羽柴秀吉、徳川家康ら家臣の欲望と策略が入り乱れた末、本能寺の変まで向かう流れを独自の解釈で描いた。北野監督は4月15日に都内で開いた完成報告会見の中で「NHKは男同士が絡み合うのを非常に避けるところがあるが、殿様に命をかけるのは、そういう関係だというのが自分の考え方。そこを描かないで時代劇を描くのは、おかしい。男同士の愛ではないけど、死を前にした男の関係が描ければ」と語っていた。
その流れを受けて、カンヌの地でも「日本の時代劇というと、日本国内でもNHKがやっている大河のような、表面的な戦国時代の引用…あまり裏の話ではない表面に出た、きれいごとでやるので、それは昔から、あまり面白くない」と切り出した。さらに「本当の戦国の武将…要するに、ああいう人たちは、ろくなもんじゃないですから。単なる悪いヤツですから。成り上がるためにどういうことをやっていたかというのを(描いた)」と続けた。
その上で、企画に当たり、日本に初めてキリスト教を布教したことで知られる、スペインの宣教師フランシスコ・ザビエルが残した資料を読んだと説明。「フランシスコ・ザビエルなんかのやつ(資料)を読むと、日本に来て布教活動で1番、驚いたのが衆道、男色が、普通の庶民の間にまで、はびこっていたと。それを戦国の時代劇で、森蘭丸や(武将の側に使えた美少年の)小姓が出てきても、あまり実態を描いていない」と、日本の時代劇が衆道、男色といった、慣習としてあったものを、避けて描いていると指摘した。
そして「自分の映画は正しいか、正しくないかではなくて、当たり前にそういう世界があって、そういう人たちの慣習を平気で描くようにして、そういう人たちの中での人間関係が本能寺の変につながっている。裏では語られるけど、表面上、あまり描かないことを意識して映画化した」と強調。「全然、今まで見たものと違うと言うかも分からないけれど実際、こういうことだ、とは思っているんですが」と語った。
さらに「暴力という一括りにすると、暴力の範囲に入るか分からないけれど、じゃあ自害だとか切腹する…そういうシチュエーションになった時に、行為自体は殺人行為であっても、戦国時代の時代背景、侍の本分とか、あらゆる設定を考えると、暴力と死と男色なんていうのは、かなりリンクしているような気がする」と衆道、男色は武士道の精神性にも関係性があると指摘。「殿様のために死んでいくこと、その殿様と(家臣が)衆道の関係があるからこそ、殿様を逃がすために盾になって死ぬ美学があって。愛と死と暴力と、3つが混在した好意があって、どこかの部分…衆道だけ切り取るとおかしくなるんで、文化が育んだ武士の作法にも関わってくるんで、難しいんだけど」と、衆道や男色を含めて描くことが、時代劇の本質であることを、重ねて訴えた。
https://news.yahoo.co.jp/articles/bfff13b99e4b3d4343c09a691e4c9e1c12835ae4
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