1:2023/06/01(木) 06:53:54.44ID:hX8tmSZx9 林哲司さん語る 今年2月に死去した音楽家バート・バカラックとの不思議な縁
公開日:2023/05/29 06:00
日刊ゲンダイDIGITAL
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/geino/323424
バート・バカラックとのツーショット(提供写真)
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これは2008年2月、国際フォーラムで行われたバート・バカラックの公演後に撮ったものです。僕はいちファンとしてチケットを買って、ライブを見て「よかった」と感動して、帰ろうとしていたのですが、懇意にしていた主催者側のスタッフから携帯に電話が入りました。「バート・バカラックに会うことができるから行きませんか」。こんなラッキーなことはないと思って慌てて引き返し、スエットパンツに着替え、リラックスしているバカラックと会うことができました。
バカラックはその後も会いましたが、その時が初めての出会いでした。
後付けですけど、バカラックとは奇遇なんです。
■駆け出し時代はCMソングを担当
ひとつは僕が駆け出しの頃。1982年に音楽出版社の依頼で日立のCMの仕事をいただきました。アメリカに行って、バカラックが作曲した曲を僕が現地でアレンジ、レコーディングしてくるというものです。「Our Lovely Days」という曲です。CMソングですが、清野由美さんが歌ってコロムビアからリリースされました。
僕は現地に飛んでホテルで出来上がったばかりのカセットが届くのを待って、それを聴きながら日本から持って行ったミニキーボードでアレンジし、スタジオでレコーディングしました。本人に会うことはできなかったけど、バカラックの誰も聴いていない曲のアレンジを任された、とても名誉な仕事でした。
元気づけられ再起のきっかけに
もうひとつ。僕にとってあの出会いは音楽人生の転機になりました。公演は08年2月ですが、僕もその年の10月に同じ国際フォーラムで稲垣潤一さんや杉山清貴さん、竹内まりやさんらそうそうたるメンバーが出演してくれた35周年の記念公演をやりました。ただ、この頃は音楽業界にウンザリしていて、それを最後に業界から距離を置こうと思っていた。
でも、2月にバカラックのステージを見て感動し、1年かけて準備した10月のコンサートで観衆の歓声を聞き、その拍手に元気づけられたことで、もう少し活動を続けようという、再起するきっかけになりました。今年は僕のデビュー50周年です。その年に僕の道しるべだった人が2月に亡くなったわけですが、08年のことも今年も勝手に縁のようなものを感じています。
バカラックを初めて知ったのは1960年代後半です。大学進学と同時に東京へ出てきて、一緒にバンドをやっていた仲間の家に行った時に、彼のお兄さんの部屋から音楽が流れてきました。それがすごくよかった。聞いたらバート・バカラックという人のアルバムがヒットしているという。70年くらいには第1次バカラックブームが起きます。
子供の頃は東映のチャンバラ映画に夢中になり、それからしばらくして西部劇になり、最初のお小遣いで買ったレコードは「リバティ・バランスを射った男」(62年)という西部劇と同題のイメージソングです。ジャケットはジョン・ウェインとジェームズ・スチュアートで、バカラックとハル・デビッドのコンビが作った曲ということを大人になってから知りました。後々有名になるコンビの作品で、2人は膨大なヒット曲を世に送り出すことになります。バカラックにその話を伝えたら「本当か」と驚いていました。
(※中略)
そんな中で僕が作曲家、アレンジャーになり、80年代にバカラックの仕事が来たり、思いがけず会うことができたのはやはり不思議な縁というしかありません。
これまで粛々と音楽をやってきたけど、ライブ活動はバカラックのライブがベースになっています。一番重要なことは、こういうことです。そこに立っているのがオリジナル歌手のディオンヌ・ワーウィックでなくても、彼のメロディーを歌うボーカリストの表現力が素晴らしければ、満足できると思います。つまり彼のステージの主体性は歌手の人気だけではなく作品にあるということ。そういう理念を抱きながら自分の作品を披露するライブを5年以上前から始めました。
(※以下略、全文は引用元サイトをご覧ください。)
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